そしてもうすっかり桜も花開いた、卯月の五日。この日も員信は夜になって海の方へと向かった。そしてやはりいつものように、その隣には三日月宗近が付き従っていた。僕は員信の隣に天下五剣の一人がいることでいつも安心して主を本丸の外へ送り出せていたんだ。いつか博多で見た妙な生物もあれから一度も姿を見せなかったし、そもそもそんなものがいたことなんて忘れていた。但し海の傍への出撃の時だけは、その得体の知れない何かへの警戒を思いだす――万が一の時には即時撤退ができるように、僕か鶴丸が必ず隊につく。本部からの指示も一切無かった。ただの偶然か見間違いとして処理しようとしている意図が明らかだ。それに僕ももう、あれを二度と起きないことだと考えていた。
 「歌仙」
 主の部屋で番をしていると、襖を開けて入ってくる姿があった。石切丸だ。前に本部の命を受けてどこかで厄払いかなにかの仕事をし、それから帰ってきてから彼はすこぶる機嫌が良かった。最近彼はよく他の大太刀と承久の墨俣へと出陣しているけれど、やはり神刀としての日々が恋しいのかな。
 「なんだか様子がおかしい。嫌な気配がするんだ」
 「それは員信が、ってことかい」
 「そうじゃないんだ。なんだか空気が違う気がする」
 確証がもてないのか石切丸の返事はなんだか曖昧だった。曖昧でも僕に言いに来るってくらいだから、きっと彼は並々ならぬなにかを感じていたんだろう。そこまでは僕にも分かったけれど、どうしたらいいかまでは分からなかった。
 「員信に言ったほうがいいかな?」
 「もう遅いかもしれない」
 僕が返す言葉もなく息を殺すようにして黙り込んでいると、石切丸は庭ごしに、海に輝く光を見つめた。海になにかあるのかな。僕にはいつも通りの、少し暖かくなってきたばかりの波の音しか聞こえなかった。空に浮かぶ美しすぎる円い月がどこか妖艶でありさえするように感じるのは、石切丸の胸騒ぎを僕が考えすぎているからなのか。黙ったままの僕が紡ぐべき言葉を探していると、彼は心なしか悲しげに、しかし心配そうに溜息をつく。
 「無事を祈ろう。私は今から加持祈祷に入るよ」
 自室へ戻っていく石切丸の背中は不安げで、僕は「頼んだよ」と声をかけることしかできない。ただ静かなだけの普段と変わらない夜。それをこんなに怖いと感じる日がくるとは思ってもいなかった。怖いと形容するのも不適切かもしれないけれど他に丁度良い言葉もない。本当に怖いのかもしれない――員信になにか起こってしまうことが。
 僕は文系とはいえど之定だからね。なんだかんだと血の色は嫌いじゃないよ。でもそれは戦場での話で主のそれは見たくない。あの時と違って今度は僕は僕の意思で主を守ることができる。そりゃあどうせ守れるのなら前の主が良かった。本当は僕だって歴史を変えて、それが許されるなら、あの人の元にいたい。でもそうじゃないんだ。歴史を変えることは過去に生きた人々の生を辱めることになると僕は思っている。そんなのは風流じゃない。あの人もきっと、そんなことは望んでいないはずだからね。だから僕はこの機会を失敗で終えるわけにはいかない。
 気を静めるためにお茶でも飲もう。そう思ってお湯を沸かしていると、苺大福を取りに来た加州清光と目が合った。
 「おっ」
 ひょい、と背後から覗き込まれる。
 「お茶?俺ももらっていい?」
 「ああ」
 「じゃあここで食ーべよ、っと」
 別に誰かと過ごしていたわけではないらしい。急須と湯呑みが並んでいたのを見て加州は自分でもう一つ湯呑みを取り出すと、手際よくお茶の葉を足している。
 「こっちでいいんだよね」
 こっち、というのは「点てるほうじゃないお茶」のことらしかった。そうだよと答えると加州は鼻歌交じりにお湯が沸くのを待っている。
 「員信はいないけどいいのかい?」
 「やだなぁ。別に主がいなきゃ嫌ってわけじゃないよ」
 笑いながらむくれる加州。
 「あ、邪魔なら俺、部屋戻る」
 「いやいや。そういう意味じゃないさ」
 「ならいいけど?たまには安定以外とも話したいし」
 確かに加州はいつも大和守安定といるような印象がある。喧嘩をしていることも少なくないけれど、お互いに気心の知れた仲なのだろうね。ここにいた刀剣が少なかった時は二人のどちらかと一緒に出陣することが多かった。同じ打刀同士、よく誉を取り合ったものだ。
 妙なものが海にいたあの日も、僕と加州は一緒に出陣していた。なんとなく追いやったはずの不安が、夏の黒雲のように僕の中に巣食っている――何を恐れての不安なのか、それすらも分からずに僕の中で渦巻く。
 「かーせーん」
 色々なことを思い出しているうちに、薬缶から吹き出る白い煙は天井にぶつかっていたようだ。視界に加州の腕が入ってきて、火の元をかちりと押すと消してくれた。
 「お湯。火は止めたよ」
 僕をいぶかしむような目をこちらに向ける加州清光。遠くのことに気を取られすぎて、目の前が見えていなかったことへの咎めなのかもしれない。
 「文系なら文系らしく雅にしてたら?」
 「え?」
 そっち座ってなよ、となだめられるように言われた僕は、その予想外の言葉に驚き変な返事をしてしまった。
 「歌仙ほどは上手くできなくても、俺にもお茶くらい淹れられるから。分かった?ほら、お茶」
 「あ、ああ……ありがとう」
 「どーいたしまして」
 のんびりと苺大福を頬張りながら、畳に足を投げ出して気を抜いている彼を見て僕は、それを少しだけ真似してみようかという気になった――ここにも、春が来ているんだね。



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