遠くで起きろと怒鳴る声が聞こえる。私の体は与えられ続ける負荷に耐え切れず軋んでいる。
 夢だ。これは質の悪い夢だ。私には夢と分かっている――遥か昔の遠い日々、私にそれを与えた地獄のような場所と、ほんの僅かな温かさの記憶。その中で私は実験体として生まれ、実験体として育った。私が生まれる一年ほど前のある日、有名な政治家の息子が拉致され、指定された身代金が支払われたことで解放されたという事件があった。私はその男の子の複製。元々普通の人間だった、その子供のクローン体。ファルスハーツと呼ばれるその組織はその誘拐によって膨大な額の資金と、まだ何にも染まっていない遺伝子を手に入れたのだ。遺伝子がその子供のものでなければならなかった理由を、私は知らない。
 私は様々な実験の被験体であった。長い時間にわたって肌を焼かれたり、人ならざるものと成り果てたものと一日中殺し合いをさせられたり、それはもう思い出すのも困難なほどの、言語で表現しなおすのも躊躇するほどの、壊れた毎日だった。ただ当時の私はその日々しか知らず、いつか私はこの毎日から解放されて、実験を行う人間たち、あの中に自分も交ざる日が来るのだろうとただ漠然と思っていた。しかし私はある夜に、夢の中で今でも響くひどく悲しげで憐れむような声を聞いてしまったのだ。
 「リョウスケもそろそろ使い潰しだな」
 それはきっと私の耳には届かないように配慮されていたはずだった。いやむしろ、そうでなければならなかった。だが二人の声は私に聞かせるためにあったかのように、隠される様子も抑えられる様子もまるで感じられないものであった。
 「死ぬまでにあの子が外に出られるとしたら明日……実験のための検査か」
 私にとっての外の世界とは、あの狭い研究所の中でしかなかった。外に出されたところで私は実験のために移動させられただけであった。だからその時の私には、その言葉がほんの僅かな希望すら持っていないと認識するほかなかったし、その希望が私にとって光となりうるとは全く考えていなかった――翌日、研究所を歩いていたら建物の外に通じる扉が開き、私を監視する目が緩んだのは奇跡であると直感したときまでは。
 あの瞬間、私は初めて「外」を見た。空を見た。まるで入院患者の服のような、着せられているというより私の身体を覆うだけの白い布が、外からの風でふわりと揺れた。外が眩しかった。外はとても広かった。私の足は私が望むよりも強い力で、私の中に宿る血を激しく滾らせながら、私の知らない場所へ広い場所へ明るい場所へと私を運んだ。
 私を追う足音、私を狙う弾丸、私を呼ぶ声、私の足元に迫る力の気配と、私の心を折ろうとする力。それらを振り払うように私は全力で駆けた。そのたくさんの音が止んで追手と距離を置いたことを知り、安堵と疲弊のために力なく地面に崩れ落ちる私の冷え切った手を握る温かな手。そう、私の夢はいつもここで終わる。

 「支部長。こんなところで寝ていらしたんですか。風邪をひきますよ。せめて仮眠室へ」
 ぼんやりとした意識に届くのは私を心配し呆れる声。時計を見ると朝の7時――事務作業の合間に仮眠をとるつもりが朝まで寝てしまっていた。私の夢はいつも地獄からの逃避行。何年も同じ夢の繰り返し。もう見飽きた黒く冷たい悪夢。だが今になって思うのだ、あの時私に聞かせてくれたあの声は、きっと私に逃げてほしいと願っていたのだと。
 夢の続きは私の記憶だ。私の右肩に刻まれた、私を虐げた者たちの手によるナンバリングと個体名の入れ墨。私を助けたその人はそれに気づいて、回復した私を質問攻めにした。知らない世界に足を踏み入れ、研究所の中のこと以外には何も知らない私は全てを偽りなく話した。私が被験体であったこと、他にも被験体はいること、近々殺される予定であった私がどこを走って逃げてきたのかを。するとその人は私を抱きしめ、そして数日後にはその研究所がファルスハーツと呼ばれる組織のものであったこと、彼らはファルスハーツに対抗する組織「UGN」のメンバーであること、私はそこに保護されて、私が望むならそこで生活することを許されると教えてくれた。
 私は助けられたのだ。
 それからの日々は必ずしも幸せではなかったかもしれないが、少なくともそれまでの私と比べれば幸せであった。言葉をうまく話せなかった私にも同年代の友人ができて、厳しく苦しい訓練も研究所での苦痛よりははるかに耐えやすいものだった。そうして私はUGNのエージェントとして成長し、功績と日本支部長の指名によって今やN市の支部長となった――あの時助けられた私は人類の盾の一員、助けるものとなっていた。

 「西園寺支部長。聞いていらっしゃいますか。やはり休まれた方が」
 保坂が何度も私を呼んでいたことに気付いていなかった。まだ私の意識は微睡の中から片足を出せてはいなかったらしい。
 「いや。もう少しすれば水世さんも来る。十分眠ったから問題ない」
 他の支部長にはソラリスのエフェクトを使用して無理をできる者もいるが、残念なことに私にはそれができない。もっとも私がハヌマーンとオルクスのシンドロームのオーヴァードでなければ、夢で見るあの逃避行に成功できてなどいなかったかもしれないが。それに私はなにか時々、普通の人間の行為の模倣が恋しくなることがある。
 「……そうだ、一緒に食事でもいかないか。この時間では開いている店も少ないだろうが、たまには外に出たくてな」
 「いいですね。ご一緒させていただきます」
 この時間にここに入ってきたことを考えると保坂も十分に眠ったとは思えない。休ませてやれないのであれば、このまま仕事を始めるよりは、せめて食事で身体を起こしてからのほうが負担にならないだろう。
 「よし、じゃあ10分後に出発しようか……ああ、それと。昼食は水世さんも誘おうと思っている。彼女もたまには労わなければね」

 ――GR1865 被験体最後のナンバー、西園寺亮輔


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