私は橘の部屋に置き去りにされた。身体を清めて温め、とりあえず服を着て一度部屋に戻り、着替えて彼の部屋に戻ってきた。私は待った。彼が「少し出てくる」とこの部屋を出て行ってからどれくらい経過したのか分からないが、日は高く昇り、少しずつ光が柔らかくなり、橙色のか細くも刺さる光が部屋の窓から差し込んでいる。その時間は彼との時間を、彼に言われたことを、繰り返し繰り返し、まるで夢ではなかったと自分に言い聞かせるように反芻し続けるだけで過ぎていった。
 「名前、呼んでくれないか」
 耳元で囁かれた声が私の中で何度でも響く。あの声、今思えば震えていた。
 「なんか言うこと、あるだろ」
 その前の声もはっきりと覚えているが、そんな頼りない声ではなかった。
 「俺も戻れたら、鍵、取りに行くんで」
 ずっと私で愉しんでいた橘が、あのあたりで突然冷めたのだ。それに彼がこの部屋を出るとき、あの脚――どうみてもキュマイラの脚だ。支部の中であれが他のオーヴァードに見られたところで問題はないから指摘するに留めたが、そういえば彼は普段からあの姿で生活していただろうか。これまで特別橘のことを気にしていたことはなかった。もちろん一緒に仕事をするとなれば同僚としての意識はしたし、戦闘の時には共闘意識はあった。しかし帰還して報告を済ませ、その後はどうだったかというと、私から橘になにか意識を向けたことなどほとんどなかった。だから「橘とは何度も風呂に一緒に入ったことがある」のにも関わらず、「彼がいつも獣化させた身体で過ごしていたかどうかも分からない」のだ。
 私は後悔しながら待っていた。暗くなると私はひどく悲しい気分になっていた。昨夜のようなことを望んでいるわけではなかったが、橘が戻ってきたら、彼と、話をしたいと思った。怒りや混乱で自制のできなくなった私を好きだと言った橘に、その言葉の意味を問いたいと思った。
 昨日のこの時間、私は拘束を受けてされるがままになっていた。はじめ私は嫌がったが、私は徐々に受け入れ求めるようにすらなっていたのだ。思い出すと身体が震えた。あまりに現実味がないせいで、実際に起きたことだとやはり納得することができない。これは私の我儘だ。現であってほしいのに夢であってほしいとも望む私は我儘だ。こんな身勝手があってはいけない。私が評価を得てここにいるのは、ファルスハーツで育った私がこの組織にとって有害とはなりえないという信用があってこそのことである。私的な小さな矛盾であっても、それを解決せぬままに生きていくことを私は望まない。
 様々なことを考えながら私は眠りに落ちていた。退屈さも手伝って、橘の匂いのする布団に身体を潜らせていると、温かさと眠気には耐えることができずに、起きたときには橘がいることを願いつつ目を閉じた――彼の匂いは、ほんの少しだけ、私を安心させた。

 そんな日々が積み重なって、もう何か月が経っただろう。
 橘は帰ってきていない。私は自分の部屋と橘の部屋を往復して過ごしていた。私に何か用があって探しに来る者は私の部屋かこの部屋に来るようになった。私物は全て自分の部屋にあるし、大概のことは自分の部屋で済ませる。ただ少しでも自由な時間を見つけると私はこの部屋に来てベッドの上で横になる。寝具や彼の衣服などを洗濯したり、彼の部屋の掃除をしたりすることもあった。そのせいでこの部屋から橘の匂いがするものはほとんどなくなった。わざわざ嗅いで探すということはないにしても、部屋でふとその匂いを感じることが少し楽しみになっているのだ。
 今でも私は橘の行方を知らない。支部長は彼が遠地に赴任したと話した。またその場所は機密上私に話すことができないとも言った。私はその話に納得せざるを得なかった。その話は信頼性に欠けるものではなかった、強いて言うならば橘が荷物と私をそのままに赴任先へ向かったということには強烈な違和感を覚えたが、それもやむを得なかったのだろうと思わざるを得なかった。
 その支部長も日本支部への異動が決定し、この支部は何故か私に任されることとなった。私は何度も辞退を申し出たが、UGNに所属して以降の経歴や戦果を並べられた私は支部長の決定を無下にすることを諦めることとなった。それに私がこの支部を引き継げば、橘の行方も分かるかもしれないと、間違っても誰かに漏らすことのできない期待があったのも否定しない。私はその痕跡をどうしても見つけ出そうと、引き継ぎや職務の合間に時間と隙を見つけては、整理された資料を更に「整理」していた。だが何一つ分からなかった。橘が異動したというのは確からしいが、それ以上のことはなにも分からなかった。
 そのことに気を落としていた私も全ての事務作業を終え、明日には私が正式に支部長の役に就くというその前日の夜。温かい風の吹く、梅雨時の深夜だった。私は支部の建物の裏にある石碑の前に立っていた。この石碑はUGNエージェントに限らずオーヴァード、場合によってはオーヴァードでなく事件に巻き込まれた人々など、この支部に関係した人間を祀る、いわば慰霊碑である。ここに来たのは初めてだった。支部長の交代の挨拶のために、私と支部長はここに来たのだった。
 「西園寺」
 私をここまで先導して前に立っている支部長が、背中を向けたままで私を呼んだ。
 「……すまないな、ちゃんと話してやれなくて」
 「何のことでしょうか」
 「隠さなくていい。橘の記録を探していたんだろう?」
 視線も合っていないのに、心を見通されたような気がした。支部長から直接話を聞いたにも関わらず記録を漁る、という行為に少しばかり後ろめたさを感じていた私は、申し訳なさから小声で「はい」と返事することしかできなかった。
 「当然のことだから気にする必要はないよ。かといってあなたに話すこともできないんだ……これは約束でね。私も墓場まで持っていかなくてはならない。こんなところでその話をする気ではなかったんだけど、今しか、言えない気がしたんだ」
 支部長は石碑の角をなぞるように撫でていた。これまで支部長自身も多くの人を失って、きっと何度もここへ来てはそうしていたのかもしれない。声がそこに祀られた魂たちに届くことを疑っていないかのように、自分が今日限りで自分がこの支部からいなくなることを彼らに告げ、代わりにここにいる西園寺が支部長になるからよろしく頼む、と呟くように言った。私はつられるように石碑に向かって一礼した。頭を上げても支部長はまだじっと石碑を見ていた。暗くてよく見えなかったが、別れのために泣いていたのだろうと私は思った。動かない後姿から一歩下がって向きを変え、私がその場から離れようとした、その時。
 「ごめんな……」
 私の耳は支部長の漏らした一言を聞き取った。誰に謝っているのか分からなかった。だが彼の苦悩を癒せるほど私はできた人間ではない。それどころか、ごめんな、という一言で、私の中に滞っていたものが一気に破裂してしまったように感じた。
 「支部長」
 どうしていいか分からない私の脚が、私を彼の元に運んだ。どうしていいか分からない私の手が、遠慮がちに彼の肩に触れた。
 「西園寺、あなたが今後もし私と同じ思いをするなら……私は」
 何も言えない代わりに私は彼の手を握った。橘ならきっとこうするだろうと思うと、私の身体が私の意思を超えて動くことも納得できた気がした。支部長という仕事は苛酷なものなのであろう。それは事務作業の多いことではない。天寿を全うせずに人が死ぬこと、それを間近で知り続けねばならないことが、これまでどれだけ支部長に負担を与えてきたのか。
 「支部長、大丈夫です」
 しばらくそうしていると、夏になりかけた、ぬるくてしっとりとした風が吹き抜けた。
 「覚悟を決めましたから……私は先に、中に戻っていますね」
 分かった、という返事を聞いて私は支部長と石碑から離れて歩き始めた。彼を一人にしなければならないと思った――この場所がこれまでと違って見えた。支部長室の窓からはここが見える。偶然見える立地なのではなく、見える場所にわざわざ建てられたのだろう。
 私も、この場所を見ながら日々を過ごすことになるのだ。
 「亮輔」
 不意に呼ばれてはっと振り向いた。その声は支部長のものではなかった。しかしこの場にいるのは私と支部長だけ、つまり私が聞いたのは幻聴だろうか。あまりに私が彼を追い続けているから、私の耳はかつて聞いた声を、私のためにもう一度届けたのだろうか。橘は今どこにいるのだろう。あなたの部屋は残っている。私はあなたを待っている。だからどうか、私がこの支部にいる間に戻ってきてほしい。それが無理ならせめて、一度だけでも会いたい。私は急に恋しくなってきて彼の名前を呼んだ。橘が部屋を出ていくときに私に頼んだ呼び方で、あの夜、私が最後の意識で呼んだ名前で。
 ここで生きていくには、一人では寂しすぎるから。
 「……道久さん」
 

(了)



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