「馬鹿か俺は」
 廊下をやや急ぎ足で歩きながら俺は何度も独り言を漏らした。馬鹿か俺は。昨夜のことだって亮輔からしてみればただの強姦じゃないか。たまたま彼がその行為を拒まなかったというだけのことで、その一晩の過ちで俺は彼の何を知ったというのか。いつものように任務を終え、風呂に入って、食事をとって、寝る。その「いつも」を外れた特別なことを彼に強いた結果、亮輔は運よくそれを受け入れてくれただけだ。
 「馬鹿だな、俺は」
 気持ちが落ち着かない。不安も、愛しいと思う気持ちも、焦りも、その全てが更に俺を不安定にさせる。目覚めた瞬間に――いや、もっと正確に言うならば昨日の戦闘が終わった時点から、俺は何故これまで見つけたことすらない過ちへの道をひた走ったのか。その時点で気づくべきだった。気づけなかったせいで、俺は徒に亮輔を傷つけたかもしれない。
 俺が向かったのは支部長の部屋だった。この時間ならもう支部長は部屋で仕事を始めているはずだ。それを妨げるのも気が引けるが、これはそれに遠慮できる状況でない。
 「支部長」
 扉を数度ノックすると、すぐにどうぞと返事があった。重い木の扉をぎぃと押し開ける。予想通り支部長は机の上の書類に目を通しているところで、扉を閉め終わって俺が挨拶をするとやっと彼の目がこちらに向けられた。
 「おはよう橘……もしや、朝からここに来たのは『それ』の件か?」
 「その通りです」
 こちらから説明するまでもなく彼は状況を察した。もちろん支部長が優秀なオーヴァードであるからというのはもちろん、それ以上に「一瞬見れば分かるほど」には俺の異常は顕在化しているのだろう。周囲へのレネゲイド物質の放出量もかなりのものなのかもしれない。彼は非常にショックを受けた様子で言葉を失っていた。
 「お願いです、支部長。俺を処理してください」
 沈黙があまりに重い。俺の気のせいだと思いたかったが彼の反応を見るにその疑いは濃厚なのだろう。俺は怖くなった。俺がこれからどうなるのか考えたくもなかった。だが俺は普通の人間ではなく、ある時に人を逸脱してしまったオーヴァードなのだ――俺の意思や感情での勝手が許される存在ではない。
 「いつからだ」
 支部長の声も暗く掠れていた。
 「……こうなったのは今朝ですが、おそらく昨夜、夕方に任務から帰還した時には」
 「そうか。今朝、今朝だな?」
 否定の言葉を返させないという意図のこもった強い問いかけだった。それが今朝ということであれば観察のための猶予期間が延びる。支部長は少しでも長く、俺が元の生活に戻れると信じ続けたいと思ってくれているのだろう。かくいう俺もそうだ。覚悟はできていたつもりだが、やはりこの終わり方は悲しい。
 「はい」
 こう返事をせざるを得なかった。
 「ですがこうなってしまった以上、役に立てるなら俺を実験に使ってください。ただ処理されるよりは、そのほうが、俺」
 「やめなさい、まだそうと決まったわけではない」
 気づけば俺も、支部長も、泣いていた。俺のこんな姿を亮輔に見られなかったことがせめてもの救いだ。俺は支部長と組織にとても感謝している。UGNが必ずしも正義の組織ではないことを知っているが、それでも感謝の気持ちに変わりはない。
 「橘、私にはあなたを助けてあげることができない……」
 「分かっています。いいんです、いつかこうなるかもって思ってましたから」
 昨夜、どうしても西園寺亮輔への興味と彼を知りたいという衝動に耐えることができなかった。彼の本性を壊して本性を見たいと思った。あれは俺の欲求でしかなかった。亮輔の心を無理矢理覗き見たいと、亮輔の口から本音を聞きたいと、あれはあの時その場にいた彼が、俺の興味と欲求の矛先にいたからで――姿かたちはまだ人のものが残っているが、あの時には既に俺の心はレネゲイドウイルスに蝕まれていた――俺は、昨日の夕方、戦闘が終わったときには、間違いなくジャーム化していた。
 「お願いがあります、支部長」
 泣いている場合ではなかった。俺はこのまま処理されてもいいが、しかし黙ったまま処理されるわけにはいかない。
 「可能な限り叶えよう。なんだ」
 「俺がこうなったってこと、俺がこれからどうなるかってこと……西園寺亮輔には、伝えないでほしいんです。隠しておいてほしいんです。何か適当に、それらしい理由で俺がいなくなったことにしておいてください。俺はもういいんです、でもあいつは」
 「西園寺……?」
 俺の口から彼の名前だけが名指しされた理由を問われて何も答えられない。昨夜の過ちのことを支部長に話すわけにはいかない。かといって、突然亮輔の名前を俺が出したことに違和感がないほうがおかしい。どう説明しようかと必死に考えたが、支部長は敢えてそれ以上を聞かずにいてくれた。
 「分かった。西園寺だな」
 「ありがとうございます」
 亮輔との関係を聞かれずに済んだことと、支部長が聞き入れてくれたことへの安堵で俺は微笑することができた。いや、亮輔との関係は実は何もないのだ。昨夜のことがあっただけで――恋人ではない。そんな関係で彼を縛る必要がないままで済んだことも俺にとっては救いの一種だ。
 「安心してくれ、あなたがそう望むなら、西園寺に限らず誰にも伝わることのないよう情報自体を抹消できる。それはあなたに残された尊厳でもあるからね。ただ……橘、あなたがどうしていなくなってしまったのか、彼らにそれを知られないのはあなたにとって寂しいことでもあるんだ」
 「構いません。俺はこの支部の名簿から抹消される、そのほうが、いいんです」
 どうせ他に身寄りもない、寂しい身の上だ。俺が一人世界から人知れず消えたところで、それを悲しんでくれる人なんてそうはいない。それはとても悲しい。それはとても寂しい。それでも俺は彼だけには知られたくないと思った。きっと亮輔は、悲しむから。
 「俺は、どこに行けばいいですか」
 「……医務室と地下の、どちらかだ。私としては医務室に行ってもらいたい」
 「僅かな希望に縋る猶予を俺にくれるのなら、医務室に行きます」
 支部長は深く頷いた。それから書類を数枚作成して支部長が信頼している秘書のようなエージェントを呼び、彼にそれを預けると俺を医務室に連れていくよう説明している。
 つまり俺はこれから形ばかりの検査を受け、結果が出たらまた部屋を移動することになる――今度は、きっと暗い部屋に。そう経たないうちに死ぬ可能性が非常に高いことが、怖い。だが、これで、いい。
 「橘、様子を見に行くから」
 部屋を出る俺と秘書を、支部長は廊下まで見送ってくれた。部屋を移動する前に支部長とはまた会えるだろう。それまでに俺は自分の気持ちと希望を整理して、口で伝えることはできないとしても、文面にでも残して彼に伝えなければならない。可能ならば、亮輔にも何かしら。
 「ありがとうございます、支部長」
 急かされていたわけではなかったが俺は深く頭を下げると早々に背中を向けた。このまま話しているのも、支部長の顔を見ているのもあまりにも辛かったのだ。俺は歩き始めた。普段エージェントが利用する医務室とは別の医務室へと、知らない廊下を導かれるままに。
 ――重々しい空気の部屋に案内された俺の理性が最期まで残っていれば、誰にも聞かれぬ孤独の中できっと俺はこう呟くだろう。
 「愛しいやつ、次は平和な世界で会おう」と。








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