皇帝邪紋と共に英雄たちと世界そのものを敵に回して戦った男がこの拠点に運び込まれてからもう数日が経過していた。ただ眠っているだけで死んでいるわけでも生きているわけでもないが、一向に目を覚ます気配もない。否、生きているという言葉も正しくこの状態を表してはいないだろう。いまこの男はただ息をしているだけだ。
 かの混沌に苛まれていたからとはいえ破壊と殺戮を行ったこの男が、こうして手を添え首を軽く締めてやるだけでも簡単に死にそうなこの男が、まだ英雄たちに、世界に生かされている理由を俺は知らない。この男も私もこの男の命乞いをする気など欠片もないのだ。こうしてただ数日寝かされている間に何を考え何を夢見て何を感じているか、時々瞼の内側で瞬きがあるくらいの生体反応からは読み取ることもできない。目を覚ましてそれでも殺してくれとこの男が望むなら、俺は約束通りに、今度こそ死ぬことができるようにしてやるのだが。もし眠りながらこの男が己の咎に苛まれているのなら、それが分かりさえすれば、今すぐにでも最後に残った呼吸さえ止めてやれるのだが――それがこの男との約束で、あの時それを果たすことから逃げた俺に残る最後の責任である。
 目覚めないこの男の様子を見に来る者が何人かいた。
 生きていることだけを確認し、それでも安堵する者がいた。
 そんな姿を見ていると、この男の口から改めて「殺せ」という言葉を聞くまでは、それがたった一日か二日のことであったとして、俺はこの男を生かしておかなければならないのだという気になる。
 「いつまで寝ているつもりなんですかね」
 どちらかというと「目覚められない」のだと知ってはいる。
 誰が見ても分かりそうなことだ。あの戦場で見かけたこの男は、不眠不休の戦いで身体を削ってまで混沌に変え、無理矢理に戦い続けたせいでぼろぼろに崩れた状態で立っていた。それがどういったわけか最低限の体裁を整えたような、生と死との境目に引かれた直線のような、そんな危うい存在レベルで呼吸をしている。この男が生きてはいると断言できる根拠があるとするならば、このただ繰り返されるだけの呼吸と、身体に広がっている龍形の邪紋、その二つだけ。
 日中、俺は基本的に英雄たちの手伝いをしている。ずっとこの男の様子を見ていられるわけではない。この男がもし、戦勝と哀悼の空気が広がるこの場所でひとり目覚めたなら、今にも消えてしまいそうなこの男が一体どんな行動に出るのか、そして何を選ぶのか。良くて一人で己を殺すか何処かへ姿を眩ますだろう、悪ければ――ああ、想像もつかない。身体は解放されているように見えているが、精神は既に蝕まれた後である可能性もあるのだから。
 「私はもう人として在ることができない」
 だから、と剣と言葉を預けにきた夜の姿を思い出せば、目覚めたこの男が元のような穏やかな男であるという保証はどこにも持つことができない。
 俺は筆をとった。
 ひとつ、ここからこの男を連れ帰ること。
 ふたつ、その場所は明かせぬということ。
 みっつ、もしまたこの男が世界に害を為すようなら俺が息の根を止めること。
 目覚めて彼が死を望んだとして、この場所で殺すのはどうかと思った。目覚めて彼が生きることを望むとして、この場所で生かすのもどうかと思った。目が覚めたところでしばらくは満足に動くことは叶わないだろう。ひょっとすると目覚めること自体、永遠に起こり得ぬことなのかもしれない。
 本当に、最後まで他人に心配をかける男だ、この人は。その手紙を机の上に乗せ、重しを乗せて、彼の身体を担いで拠点を後にした。途中まで黒の狼がそれを手伝いについてきてくれたおかげで、慌てて荷車を用意することもなく――思ったよりも短い期間で、俺は彼が長らく住んでいた村の小屋へと戻ってきたのだった。



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