村に戻ってさらに数日、相変わらずこの男は目覚めない。
 もう二度と目覚めることなどないのではなかろうかと思われるほどに、微動だにせず眠り続けている。時々身体を拭いてやるのだが呼吸以外の何も行われていないことを改めて知らされるだけでどこか虚しい。表情は常に何も示してはいない。胸に十字の傷痕が残っている他には怪我の痕跡もなく、ただこの男の寝顔を見に小屋と外との往復を繰り返すだけの時間がいつまで続くのかとぼんやり考え始めていた頃、変化は起きた。
 未だに目覚める様子はない。相変わらずこの男は眠ったままだ。
 しかしある朝いつも通りに起き上がってこの男の様子を見ようと覗き込んだとき、耳が白の鱗に覆われていることに俺は気づいた。生きている。あの日からただ眠るだけの時間を、何の変化も見せずに送り続けていたこの男の身体が、初めて変化というものを示した。この男が他の生きているもののようには時間を過ごしていないことを俺は聞いていた。同い年くらいのように見えるが実際は遥かに年上であることや、それがただ生命状態が若いというばかりではなく、この男から時という概念が消え失せていることが原因であるということを。
 ともすればこれが何年か越しの、極めて珍しい事態であることを俺は悟った。
 だが同時にこれは不安ともなった。一体この変化をもたらしたものが良いものか悪いものか、どちらだと言い切ることはできないのだ。
 「叔清」
 呼びかけてもやはり返事はない。これを機に目覚めてくれれば話が早いというのに。
 やむを得ない。これが回復の兆しであるにせよ、変質の証であるにせよ。もしこの男が俺の目のないうちに目覚めたときのことを考えて、俺はこの男の身体をベッドに括り付けておくことにした。
 もし回復しているのならば、いつかこの男が目を覚ました時に動き回って無理をされるのは困る。たとえ動けないとしてもこの男は動こうとするだろう。時に己の意思で道理を曲げてまで望んだとおりの行動をとろうとするのは邪紋使いという生き物の特権で悪い癖であると俺は知っている。しかもこの男は滅茶苦茶を平然とやってのける。その点ではこの男は全く信用に値しない。
 もしこのままこの男が別の凶悪な何かに変貌しようとしているのならば、たとえ一秒しか稼げなかったとしても動きを封じておく必要がある。そういった意味では英雄たちのいる拠点から連れ出してきたことは悪手であったのかもしれないが、殺そうとして殺せるモノであるならば俺一人でも多少の時間稼ぎは可能だろう――ただ、おそらくはこれが快方へ向かっている証拠であるという得体のしれない確信が俺にはあった。昔の白い竜の翼を俺は知っている。この鱗の色を、俺は知っている。
 ただ鱗に覆われていただけの耳も、その日の夜には人のものでない形に変わっていた。もし一時も目を離さず眺め続けたならば徐々に耳が大きく伸びていく様を見ることになったのかもしれないが、流石に俺もそこまで暇というわけでもなく、灯りの下で初めてそれを目にしたときにはつい驚いて数歩引き下がってしまいもした。これが眠ったままのこの男の意思によるものであったのか、それとも別の意思によるものであったのか、そこまでを知ることはできない。ただ少なくとも彼が何かに変わりゆこうとしていることだけが俺に分かった。
 「まだ起きないんです?」
 必要はないと薄々分かっていながらも髪に櫛を通してやる。これまで気にならなかった耳に櫛の頭が引っかかって、ただそれだけの小さな障害がしかし俺の気をどこか明るくしてくれた。こんな小さな変化が毎日でも、少しずつでも起きてくれたならば、もしかすると早いうちにこの男から彼自身の言葉を聞くことができるかもしれないと。



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