(氷を溶かした甘い蜜。の続き)

 深く深く沈んでいく、暗くて冷たい海の底。
 口からぼこん、とこぼれた大きな泡が高くへと上っていく。
 一人。一人だ。
 誰もいない。どれだけ沈んだのか分からなくて、とにかく俺は死んだのだと思った。生きていたとしてもこれで死ぬのだと思った。底にはまだ辿り着かないのだろうか。目を閉じて落ちるに任せていると、空気を欲しがる身体がもがきはじめたが今更だ。このまま死ぬのは怖くない。どこでだかは覚えていないが、ここに来る前に十分に怖がった気がする。
 もうどうしても仕方ない。肺の中に水が入るに任せようと開いた口に、流れ込んでくるもの――

 温かい液体、人肌の空気。触れているのは唇だ。重力と反対方向に引き上げる腕にがっしりと身体を掴まれている。抗わなかった。この唇を、この腕を、よく知っているから。
 これがきっと最期なのだから、最期くらい、このまま夢に浸って迎えさせてほしい。
 触れていた唇が俺を呼んだ。

 「先輩」
 揺り起こされている。まだ眠い。今日は休みだから起きる理由はないはずだ。起こそうと肩に触れる手を掴んで、掴んだのは腕だろう、そのまま引っ張った。
 「もうっ……!」
 抗議の声が聞こえたが無視して抱き枕にしてしまう。まだ眠い。温かい、を超えて熱い肩に頬をくっつけ目を閉じたままでいると、ほどなく二度目の微睡みが訪れて、そこからまたすぐに引きずり出される。
 「起きてください先輩!買い物に行こうって、約束」
 「ねむい、もう少しだけ……」
 「もう十時ですよ……俺、楽しみで早くから待ってるのに」
 悲しそうな声がした。そうか。そんな小さな小さな約束が、彼にそんな声を出させるほど大切なものだったなんて、考えたこともなかった。腕の中に収めた、大きいのに小さな身体をぎゅうと抱き締める。
 「……悪い。起きるよ」
 いとおしくて額に口付けた。
 「だからもう少し、このままでいさせてくれ」

 もう少し、このままで。
 このままでいさせてくれ。

 幸せな夢。

 目覚めてしまえばきっと、何もなくなった現実だけが俺を待っている。

 「先輩」

 いつもの声が聞こえる。諦めたくなかったんだ。いつかは別れがあるとしても、いつかは置いていくとしても、もう少し幸せでいたかったんだ。かつての俺なら望まなかった、自分には無関係の、無垢で綺麗で小さな光が、今の俺には必要で、どうしようもなく遠くて、やっと近くにいられるようになったというのに。

 「起きてください」

 「起きてくださいってば……」

 「ねぇ、先輩」

 懐かしい声が聞こえる。いつからか朝に弱くなった俺をいつも起こしてくれる、穏やかな声――どうしてそんなに寂しそうに俺を呼ぶのだろう。我慢できずに欲しがるのは俺で、優しいおまえはいつも、少し困ったような顔で応えてくれたっけ。
 それから、喜んでいたっけ。

 ごめん。
 何も返せなくて。

 冷えきった身体を抱き締めてくれるくらい、こんな俺を大切にしてくれていたのに。おまえの声は聞こえるし、手の温かさも感じられるし、もしかすると幸せな現実に戻れたのかもしれないけれど、きっとあまりにも死に近いせいで身体が動かないんだ。

 「……起きてよ、巽さん」

 抱き締めてやれなくて、ごめん。
 冷たい海の底は少しだけ温かくて、おまえの匂いがするよ。




 
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