寒い。
 寒すぎる。
 アウトフィットでどうにもできないほどの寒さ。目覚めたらあまりにも寒く真っ暗な場所にいた。この寒さでは温度を視認できるヒルコの目も全く役に立たないし、****を呼んでも返事はない。手探りで周囲を確かめると、箱かコンテナのようなものがぎっしりと壁のように並んでいることが分かった。手触りや大きさは様々だが、同じものがまとめて積み上げられている。
 これは冷凍庫だとすぐに思い至った。何故かは分からないが俺はどうやら冷凍庫にいるらしい。理由を考えるために今朝起きてからのことを思い出そうとすると途中で頭がひどく痛んだ。いつも定位置にしまっているはずのタップもない。馬鹿な。****と二人で部屋を出てからどこで落としたというのだろう――そこまで考えた俺は「最悪の現実」から目を逸らすことを諦めた。どう考えてもどこかで誰かに襲われ閉じ込められたのだ。そのまま手探りで壁面を辿り、扉の取っ手と思しきレバーに手をかけてみたが動く気配がない。壁や扉を叩いてみると頑丈な冷凍室だと察せられる。丁寧に外から鍵までかけているらしい。自分は殺されようとしているに違いなかった。****がここにいなくて本当によかった、いや、****もどこかで命の危機に晒されているのかもしれないと思うと、不安と恐怖のあまり泣きそうになるが、どうか無事でいてくれと唇を噛む。
 今の俺にできることは二つ。一つはこのまま全力をもって意識を保ち続け、助けが来るのを待つこと。一つは、今残っているエネルギーを使って身体の機能を停止に近い状態にして、生命維持を図ること。どちらを選んでもリスクは大きい。このまま耐えられる時間なんて知れているから、体力を失って意識を維持できなくなったならば俺はそのまま死ぬだろう。もし生命維持を図っても、発見された俺は簡単には冬眠状態から目覚められないし、発見者が目にするのは人間ではなく「ヒューマナイズが解けたヒトならざる姿のヒルコ」だ。
 まだ俺はブラックハウンドで****と仕事をしていたい。ヒルコだとバレてしまえば単なる除籍処分では済まないだろう。発見者によってはさらに大事になるに違いない。もし俺をここに閉じ込めた主犯が俺を発見したなら、その時は、もう何もかもが絶望的だ。
 怖い。冬眠状態に入る、という、俺にしかできない手段が残されているとはいえ、怖い。冬眠できることは若い頃に受けた変異検査で知らされていたが、当然実行なんてしたこともない上に、発見される時の状態によってはこのまま死ぬより酷いことになる。怖い。殉職ですらない完全な理不尽で死ぬことが、死ななかったとしても回避できない未来が、怖い。
 恐怖で思考が埋め尽くされる。ただでさえ****の無事を願うだけで精一杯だったというのに、現実に直面して自分の今後を考えると――まずい。思考も緩慢になってきた。膝を抱え、体温を出来る限り逃がさないようにしてはいるが、防寒用のアウトフィットなどない状態で零下の寒さに晒され続ければ待つのは低体温症、その先に凍死があるだけ。だめだ、これ以上はこのままで生命維持を図るのは不可能だ。諦めて死を待つか、ほんの僅かな可能性に賭けるか、決断のためにぐっと意識を手繰り寄せる。
 死んでもいい。完全なヒルコの姿で発見され意識を取り戻したところで、変わってしまう未来を生きるなら死んだ方がましだ。その方が。
 嫌だ。
 死にたくない。
 せめて****の無事を知りたい。きっと俺の選択はブラックハウンドに不利益と害をもたらすに違いないが、せめて死ぬ前に****に会いたい。こんな先輩ですまなかったと謝罪がしたい。嫌だ。もっと****と生きたい。
 たとえ奇跡が必要でも、****と会える可能性がまだ残されているのなら。
 「会いたいよ……」
 変わり果てた姿でも受け入れてくれる、大切な人のところに帰りたい。ヒューマナイズを完全に解除した。震えることも諦めた身体が鱗に覆われていく。尾が出るのに邪魔な部分の布は爪で裂いた。首から広がる鱗が顔まで上ってくる。怖い。全てを晒けだすのは、死ぬのと同じくらい怖い。一切の隠匿を放棄して身体特徴を全て発現させるのは、二十年以上前の変異検査以来のことで――あれからも自分の変異は進行しているだろうけれど、せめて冬眠という手段が確かに機能することを祈る。
 眠らなければならない。こんなぐちゃぐちゃな思考のままで、普通に眠れば死ぬしかないこの環境で、自ら意識を手放して、眠らなければならない。怖い。二度と起きられないかもしれないのに、眠らなければほんの僅かな可能性すら生まれないなんて。膝を抱えたままで、額を膝に載せて目を閉じると、昏睡が始まっているのだろう、思考が途切れて走馬灯に変わる。
 ****。
 寒さに弱いと半ば口実をつけて身体を近づける俺を拒まないでいてくれた。温かい背中、不器用ながら偽りのない優しさ。一度失いかけて、必死に取り戻したと思ったのに、今度は俺がいなくなるのか。いいんだ、****は俺を好きだと言ってくれたけれど、きっとそれは嘘ではないのだろうけれど、俺が死ねば悲しんではくれるだろうけれど、それでも、****には俺がいなくても掴める未来がいくらでも残っている。
 昔はいた両親や、ストリートでの生活、ブラックハウンド入隊後のたくさんの時間。膨大な記憶の走馬灯の中で、****の姿を何度も何度も瞼の裏にみるのは、それだけ俺があいつをかけがえのない存在だと求めてきた証か。
 会いたい。
 会いたいよ、****。
 大切な人が俺にだけ向けてくれる笑顔を最後に思い出したときには、不随意に呼吸が繰り返される感覚も、唇を動かす体力も残っていなかった。

 




 

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