もしも、天国があるのなら。
 そんなことを考える。
 俺は地獄に行くのだと。
 らしくないとも自覚して。
 もしも、天国に行けるなら、と。

 もしも、天国があるのなら。
 そんな夢想を伝えたならば。
 きっとおまえは笑うだろう。
 春雨の穏やかで温い顔で。
 もしも、天国で会えたなら、と。

 刀についた血液を払った。おおよそヒトかそれに近い生物は大概ウェットではないので、居合いで金属ごと叩き斬ろうと思うと力加減の調整が必要だ。金属を斬る力と勢いで生身の部分に刃を通すと、勿論斬れはするのだが引きが甘くなって血や脂がやたらと残る。現代のカタナはただ斬ることだけを考えていても務まらない。汚れを巻いたなまくらをいくら振り回したところで切れ味は悪く、斬擊の甘さは我が身に返って命取りになるのだから、戦いの最中に時々こうしてリフレッシュ機能を起動する隙を作らなくてはならない。
 俺は二人分の命をこの手に懸けている。死ぬわけにはいかないのだ。
 とはいえ死を覚悟することはいくらでもある。遥か昔、日本のサムライも「武士道は死ぬことと見つけたり」と葉隠なる文書に述べていた。まあやはり死ぬのだ。殺す奴は殺されるし、守る命があるなら終わる命もある。葉隠、そんな内容だったかは正直怪しいが。
 死を覚悟すればもちろんその先のことを考えることもある。いや、死んだら終わりだ。間違いなく死んだら終わりだが、残される人間はその先も生きていかねばならない。俺を喪った時雨はひょっとすると俺の遺す禍根のせいで長くは生きられないかもしれないが、一応そのあたりは手を打ったつもりだ。そうだな。例えば俺が今日死んでも、時雨は少なくとも残り五十年は生きると考えよう。そのくらいは生きてほしい。せめて俺と使った時間と同じぐらいは自由に生きてほしい。無理だろうか。俺がこれまで買った恨みが時雨一人に向けられても時雨は生きていける、なんて、俺の見積もりは甘すぎるだろうか。
 じゃあ、二人とも死んだとして。死ぬときは俺のせいだ。ひとえに俺の力が及ばなかったために、時雨を守るという約束を果たせずに死ぬのだ。なんとも情けない話だ。二人で生きて帰るというただそれだけ、今日はできたことを、その日はできずに命を落とすのだ。そのときは――それで終わりなのだが、それで終わりと考えるのは、些か寂しいから、その先のことをとりとめもなく考えることがある。
 死後の世界なんて考えがあるらしい。信じるかはともかく、少しくらい妄想に耽ってみるのもいいだろう。そこでなら時雨は自由にいられるだろうし、好きなことに没頭するだろうし、天国の住人である時雨が望んだならば、時雨はこのまま俺といられるかもしれない。
 ――俺自身は。
 俺は一人になるだろう。あまりにも人を殺しすぎた。天国があるのなら地獄もあって、俺が行くのは地獄に違いない。時雨とは別々だ。
 そうだな、もし、何かの間違いで時雨と共にいられるならば、行き先がどちらであっても俺は構わない。なにせ時雨がそこにいる。願わくば時雨には地獄の旅の道連れにはなってほしくないから、自分の意思で来るのだと言われれば突き放すだろう。時雨は痛いのも苦しいのも大嫌いなのは分かっている。俺とは比べ物にならないくらい、苦痛に耐えかねるのだとよく知っている。まあだから、あれだ、やっぱり時雨には俺とは離れて自由になってもらわないと困るのだ。そうでも言っておかないとなんだかんだと屁理屈こねて着いてきそうだもんな、時雨。
 額にひんやりとしたものが触れた。この感覚はどうやら現実のようだ。これが現実だということは今まで俺は夢をみていたことになるわけで、成程確かに目を開けることができたし、見慣れた天井と心配そうな表情がぼやけて視界に映っている。気づかないうちにソファーの上で転寝していたらしい。
 「……時雨?」
 俺が転寝しているなんて珍しいことでもなかろうに、熱があるか確かめてくれたのだろう。決して温かくはない手が額に乗っていた。
 「ふぅ。なかなか起きないから心配してたんだ。痛いところは?ないね?」
 「ないが。ははは、寝てただけで大袈裟だな」
 よいしょと起き上がろうとして、突き倒すようにまた寝かされた。勢いがあったとはいえ相変わらず非力なので抵抗するのは簡単だが、いつの間にか時雨が並々ならぬ形相をしていたので従うと、突然「バカ」と詰られたので笑いそうになってしまう。というか少し笑ってしまった。
 「バカ!バカ唯月!君、精神攻撃受けてただろ!なんで俺に言わなかったんだ!」
 あれ、そうだっけ?そういえば、斬るもの斬ってから帰ってくるまでの記憶がひどく曖昧、というか、記憶がない。少しだけ肝が冷える。余程でもなければ時雨と全く話さずに帰ってくるはずもないのに、なんとなく虚ろで、言われてみれば確かに放心したままでここまで帰ってきたのかもしれなかった。夢とはいえ柄にもないことを考えていたのはそのせいだろうか。
 「あー、そうだったか?そうだったかもな……悪ぃ悪ぃ、全然覚えてな――いたっ」
 でこぴんされた。そこそこ痛い。こうなった時雨はしばらく機嫌を直してくれないので、考えうる色々な感情表現の中から選ばれたでこぴんをしてきた手を掴んで引っ張っておく。
 「悪かったって。まあそう怒るなよ。おかげでちゃんと帰ってこられたんだからな、って!こら時雨、それ痛ぇんだぞ!」
 手だけじゃダメだ。せめて生きている間は時雨がどこかに行ってしまわないように、腕ごと握って引き倒した。

 もしも、天国があるのなら。
 心配しなくていいように、
 おまえは一人で行ってくれ。

 今が最高に楽しいから、
 死後の救いは俺には要らねぇよ。
 だからさ。
 生きてる間は諦めて付き合ってくれ。

 な、時雨!



 
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