絶望異聞 レオンハルト×ルゥイン

 割れた床の上で、竜が静かに寝息を立てている。
 時々眠りに飽きたように目を覚まし、首をもたげて辺りを見回すが、しかし探しているものは見つけられずにまた眠りに入る。そんなことを何度繰り返しただろうか。かつん、かつんという靴音と共に強大な混沌の気配が近づくのに反応して金の眼が見開かれた。
 まだ足音は遠い。余程の注意を払っていなければ気づくことなどできないほど遠い。
 それでも間違えるはずのない気配が姿を伴って近くに現れるのを待つ。ぎぃ、と扉が開く前に、それまでの反応が嘘であったかのように竜は眠ったふりを始めた。
 「また寝てんのかテメェは」
 声をかけられてやっと金の眼を向ける。興味はないとでも言いたげな色で。億劫そうに一度翼を開いたのは、出迎えの挨拶はこれで十分だろうと主張でもするかのようだ――その翼は黒に染まっている。身を侵す混沌にもうほとんどを覆われて、今や最後の理性を竜の血と宿る神が辛うじて支えているに過ぎない。己の混沌などもう残っていないに等しい。
 「おら、返事しろ竜モドキ」
 この声の主の身体の中には、己を生かす唯一の楔が入っている。無視するわけにもいかず、しかし微動だにせず言葉を返した。
 「おかえり」
 それだけ。
 真っ黒に染まった竜は向けられる視線にぷいと顔を背けて面倒くさそうに眼を閉じた。
 「はん、愛想のねぇやつ」
 竜の心を知ってか知らずか、声は顔のすぐ横で甘く囁く。覚えるまで何度も聞かされた、抗えないその響きは骨の髄まで染み渡るように、頭の先から足までを貫くように、竜の全身を支配する。無反応を貫いていた身体がびくりと跳ねた。
 「……ふん」
 頭をくいと持ち上げられてそれでも必死に視線を逸らす。この数日ずっと帰りを待ちわびていたその手に触れられ我慢ができなくなった竜の姿は突然黒の霧に溶けて消え、代わりに残ったのは顎を持ち上げられて不機嫌な表情の男の姿だった。
 「離せ」
 金の眼が尖った光を向けて、そこでやっと両者の目が合う。まるで睨み合うかのように二人の視線は衝突したままで硬直を続け、それは石の床に座っていた男の頭を、顎を掴んでいた手が床に押し付けるときまで続いた。起き上がろうと身体を支える手を地面から引き剝がして仰向けに転がし、軽く弄ぶように触れながら愉しそうな金の眼を向ける。
 「離していいのか?」
 見下ろされた目の端には涙が滲んでいた。己の命を握る強大な力に一方的に屈辱を与えられていた日々はもう遠く、今にも弾けて壊れそうで、それでも強靭な意思で生き続けている彼を失うことが怖くて仕方がない。もう二人とも助からないだろう。遅かれ早かれ彼はいつか混沌に呑まれ、世界は痕跡すら残さず消え失せる――その時はもう目前で、しかしまだまだ受け入れたくはなかった。
 「うるさい。早く寄越せ……余裕なんぞ、ないくせに」
 応えて、にぃ、と上がる口角を、求めて指先が空を掻いた。




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