一瞬だけ瞳の月を雲が覆い隠したように見えた。半分は余裕のある彼へのはったり、半分は本当に思い出せなかったのだ。記憶力が落ちたようで、特に数字や時間が関わる物事を思い出すのに時間がかかることがある。先日は端末のパスワードを忘れて瑞鳳を呆れさせてしまった。まだ三十歳にはなっていないはずなのだがアルツハイマーだろうか。
 「これほど美しいじじいとの出逢いの日を覚えていないというのか?寂しいものだ……」
 口元を隠して大袈裟に悲しんでみせるじじい。酷い三文芝居である。それがわざとであることくらい俺にも分かる、けれども、何か――誤魔化されたような気がした。
 「中臣の、おまえが何を案じているのか分からん。俺は紛れもなくおまえに呼ばれた三日月宗近だよ」
 厠へ行くのではなかったか?と背中を軽く押された。だからいつから俺はじじいと連れ立って厠に行く仲になったのか。そしていつから厠は俺とじじいの密談用個室になったのか。背後の足音が最強の護衛のものだということは分かったが、本丸の中だけの話ならばどちらかといえば民間の警備会社に護衛されるほうが安全な気もする。
 「んー、何か俺に至らぬことでもあったか?」
 「微塵も」
 至らぬこと、という点においては。
 「それとも今の関係では物足りなくなったか?触れたいだけ触れて良いのだぞ、中臣の」
 「じいさん、冗談がきつい」
 「はっはっは」
 このじじい分かって言っていやがる……彼が笑う声を除けば廊下がいやに静まりかえっていた。外の雪に音が吸い込まれて閉ざされたような圧迫感すら覚える。それにしてもよく笑うなこのじじい。まさか厠にまで着いてくるのはそういう魂胆なのか。扉の内側で待っているじじいに見られながら用を足していると謎の悪寒が背筋を走った気さえした。
 「案ずるな中臣の」
 それはどっちの意味でなのか。
 「この身におまえの痕跡があるうちは、俺の主は他ならぬおまえだ。おまえがそれを疑うようでは寂しい」
 遠回しな猥談かと思ったら思いがけぬ真面目な話で、正論に不意を突かれた俺は手を洗うための水を流したまま止めるのを少しの間忘れていた。何度か俺の生活行動を見て学習したらしき三日月が蛇口を締めてくれた。視界に入ったしなやかな指先に瞬間の思議から引き戻される。
 「中臣の?」
 「……ああ、すまん」
 そういえばそんなものもあった。刀剣男士、もっと一般的に言うならば神霊、をこの世に繋ぎ止めたときに、それ以前にはあるはずもなかった媒介者との関わりの痕跡が魂の側に残ってしまう。審神者はシステムデータを端末へインストールするように、この世のものではない形もたぬ神霊を、つい数時間前まで資材だったこの世のものへとおとしこんでいく。刀剣の名の主たちは媒介者たる審神者の心を視るために「審神者の意識と対話した」記憶を持ってしまうから、彼らは媒介者の痕跡をその内に直接留め、主にとってはそれが他ならぬ自らの呼びかけによるものあると判別する証ともなる。
 「疑っては。ただ思い出せないのが不安なんだ」
 「ははは、俺の杞憂か」
 きい、と扉を開けて外に出ると三日月は一歩、立ち止まると首だけ振り返って、遠い昔に見たような気がする慈愛の表情を俺に向けていた。
 「まあ、それはいずれ思いだすだろう。それとおまえはいつか俺に『壊させない』と言ったな。俺も形あるうちは不慮のことでおまえを死なせはせんよ」
 何故か腹が立ったのでじじいの両頬を摘んでやった、間抜け面ざまあみろフリーダムじじい――その間抜け面に免じて少しくらいは喜んでやろうじゃないか。



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