不必要に接触される。何よりこの男のタチが悪いのは、私が抵抗できないように腕の自由を奪って、私の拒む言葉など無視して、しかも気色の悪い触れ方をすることだ。暴力になら本能的に慣れていた。痛みなら、熱さなら、それが行き過ぎるまで耐えることができたのに。そう、あの冷たい夢の私のように。
 次にこの男のタチが悪いのは、何故私に触れるのか分からないことだ。言っていることが理解できない。私が気にくわないから陥れようとしているのか、それとも好意の延長なのか――こんな好意が世の中に存在するだなどと、思いたくもないが。
 私は橘さんになにか悪いことをしたのだろうか。このように触れるほど、私の感情を揺さぶって不快にさせようとするほどに、橘さんは私を憎んでいるのだろうか。私がこうして苛立っている間にも彼は私に触れる手を止めない。服越しであっても触れられるとあの悪い夢の恐怖がじわじわと蘇ってくる。夢で私に触れる手は私を痛めつけるのだ、私の心と身体が限界に達するまで、絶えることなく。
 「西園寺」
 呼ばれると同時にその手が離れた。私は少しだけ安堵した。その声が、憎しみや怒りを伴うものではなかったどころか、私を助けたあの人の声に少しだけ似た響きだったからだ。忘れられないあの声をなぞって重なるような、不思議な柔らかさだった。
 「おまえ、泣いてんのか」
 だが私を見下ろす顔はあの人のものではなかった。もっと粗雑で、動物的な顔であった。触れられる不快さに耐えていた私は、その顔からこそ柔らかい声が発せられていると理解していても、その表情に恐怖を覚えた。私には恐怖でしかなかった。ただその顔を見ていられなくてきつく目を閉じた。橘さんが敵でないことは頭では分かっている。だがさっきまでは敵でなかったというだけで、今の橘さんは紛れもなく私の敵だ。私を不快にさせ、傷つける敵だ。逃げなければならない。夢で私が駆け続けたように、彼の手から逃れて自らの平穏を手に入れなければならない。手足の先が冷たくなって、顔を水滴が滑り落ちた。
 「離してください」
 私にはそれしか言えなかった。ただ彼が私を解放する気がないのは明らかだった。そればかりか彼の傷だらけの腕が私の体の下に滑り込んで、持ち上げられた全身を密着させられ――私には何が起きているか分からないまま、ただ恐怖感だけが抜け去っていく。
 あなたがここまで来られて、よかった。
 そう言って私を抱きしめたあの手の感触が蘇る。後にも先にもなかったあの抱擁を受けて、あの時の私は不思議なことに不快だとは感じなかったのだ。私の中の数少ない綺麗な記憶が今の私に重なって、辛うじて掠れた声を出すことができた。
 「橘さん?」
 「馬鹿だなぁ……馬鹿だなぁおまえは……」
 両手に掛けられていた真っ赤な鎖がばらばらと砕けて落ちた。熱い額が私の額に触れて、熱い水滴がぽたぽたと落ちていく。それを綺麗だと、私は思った。
 「嫌がってるのは分かってたが、泣くほどなのかよ。怒ってないって口では言っておいて、おまえ、そんなぼろっぼろ泣いて」
 「泣いてるのはあなたでは」
 「馬鹿野郎。おまえの涙だよ」
 私は泣いていた。悲しいわけでもないのに私は泣いていたのか。まるで実感の湧かない体の反応でしかなかったが、つまりさっきまで私は悲しかったのだろうか。腕が自由になったことを思い出して動かす。どうしていいか分からなかったが、遥か昔に抱きしめられたあの私がそうだったように、私の腕は彼の背中へと伸びた。
 「おまえさ、それ、無意識?」
 「何がですか」
 返事もなく乱暴に、ベッドに再び押し付けられる。今度は鎖はない代わりに橘が私の服を脱がしにかかっているのが分かった。
 「なっ、なにを」
 「あーもううるせぇな」
 「説明しろ貴様っ」
 訳の分からない私は叫ぶ。先程までとは違う身の危険を感じた。何をされるのかも分からないが、少なくとも本能が私に訴えかけている。逃げろと。
 「っんの馬鹿力!」
 押し返そうと腕に全力を込めた瞬間、私の体はびくんと跳ねてその力を失った。彼の手が私の腰に触れていた。何が起きたのか分からない私の意識が空白になっている間にその手は侵入し、私の思考が宙に浮いている間にその手は空気が触れた次の瞬間の局部に触れていた。
 「あんまり暴れんじゃねぇよ」
 「抵抗しない馬鹿がいるか!」
 腕を掴み合っての揉み合いになったが戦場で刀を振るう彼の力に勝てるはずもなかった。為す術もなく両腕を押さえつけられて再び鎖が私の体の自由を奪う。
 「ちくしょう、暴れなきゃ自由にしておいてやろうと思ったのに」
 私は無力だ。戦場でもいつもそうだ。共に戦う者が私の傍からいなくなれば、私はいつでも簡単に命を失うことになるのだ。それでもいいと思っていた、私の力でできることは彼らを支えることなのだから。そのおかげで彼らはジャームに堕ちずに敵を仕留めることができるのだから、それでいいと誇らしくすら思っていた――しかし、それだけでは、私一人では何一つできないことを証明されてしまったのだった。
 「いいか西園寺。俺はこれからおまえを犯す」
 熱を持った鎖の出所が彼の腕の傷口であったのを、私はその時はじめて見た。その傷からは今も絶え間なく血液が流れ出し、鎖となって幾重にも私の体を巻き上げていく。己の血を浪費してまで橘は私を犯すというのだ。それがどういう行為なのか私は知らないが、彼にとって命を削るほどの価値のあることなのだと、ただそれだけを私は知った。
 「嫌だ。貴様が何を言っているのか分からない」
 「分からねぇだと?……そうか」
 彼の指が私の唇に伸びた。反射的に顔を背けたがもう片方の手で顎を掴まれ引き戻される。抵抗しているようで全くできていなかった。私はただこの男の手と感情に弄ばれているだけなのだ。
 「じっとしてろ。おまえにそんな顔をされると俺も自制できなくなる」
 目を閉じたまま、真っ暗な世界で私が感じ取ったのは唇に湿ったものを押し当てられたことだけ。指ではなかった。見えないままに何かされ続けるのが怖くて恐る恐る視界を得ると、目の前に、目と鼻の先という言葉がただの比喩ではない距離に、橘の体温――それに傷つけられるという恐怖はなかった。逃げる気が何故か起きなくて私はまた目を閉じる。口内にするりと入ってくる濡れた熱、それが舌だと、ただそれだけが私には分かった。ただ弄ばれているだけ。私はそれ以上を考えることを放棄した。橘が私を「犯す」ことに満足するか飽きるかしない限りは、きっと私が解放されることはないのだ。このように行き過ぎとしか思えない接触が彼の望みならば少しくらい流されても差し支えないだろう。諦めに限りなく近いが許容でもあった。ほんの僅かだけ、私の錯覚でしかないだろうが、私は特別な扱いを受けている――そんな気がしたからだ。
 私は軽く酸欠になっていた。こんな行為が私に与えられているのは特別な好意によるものだと一瞬でも妄想したのはそのせいだろう。妄想は血と煙草の味とともにあった。あまり好きではないはずの煙の香りが、ぼうっと霞んだような頭を甘く響かせて揺らす。彼の舌は温かかった。私が知らない柔らかさでもあった。私はどうかしてしまったのかもしれない。引き抜かれた舌が名残惜しくて、追いかけてしまうだなんて。
 「気に入ったのか」
 向けられた意地悪い笑みは霞を流す突風だった。必死で繕った無反応は彼の目にはただの肯定にしか映らなかったようで、牙が覗きそうな口の端が薄く持ち上げられる。つい先程私に口づけたあの唇と同じものだとは思えない。
 「いい子だ。大人しくしてろよ『亮輔』?」
 フルネームで呼ばれることは多々あっても、ただそれだけでは夢の中以外では呼ばれたことのない名前。わざとらしく囁かれた驚きと嫌悪感と、何かが胸に刺さるような痛みを覚えた。
 「ふーん、いい顔するじゃねーか」
 「橘ッ」
 「悔しいならおまえも名前で呼んでくれていいぜ、亮輔くんよ」
 私が言い返そうと言葉を選んでいるうちに脱がされていた。任務の後には橘と一緒に風呂に入ることも多い、だから見られたところで今更恥ずかしくもない。そのはずだ。耳に吹きかけられる吐息が熱い。肌に密着する体温が熱い。彼の命であり剣であり盾である血液が炎のように私を温めている。私の身体が熱いのは偏に彼のせいであり、彼の体温が心地よいからではない。況してや彼の手が私の局部に無遠慮に触れている、なんてことが、あるはずがない。
 「貴様、何して」
 「何って、生理現象だからこれぐらいのことはするだろ?」
 「それと何の関係がっ、やめろ、馬鹿!」
 黙れ、と笑った目で睨みつけられ私の背中に震えが走った。そのときにはもう私の身体は私のものではないようだった。処理ぐらい自分でする。別に快楽を求めてのことでも、生殖行為のためでもない。だから今すぐその手を離してほしいと心から思っているのに、抵抗するだけの心の隙間すら残っていなかった――だめだ。この男に屈してはだめだ。心から愉しんでいるあの目に、痺れている場合ではない。
 「橘さん、だめです」
 力が入らない。目が赤いはずがないのに、私を見つめる彼の目の赤さが私を貫く。
 「もう、私」
 「黙ってろって」
 彼の指が私を真っ白に曇らせる。
 「俺は俺のやりたいようにする。おまえは単なる被害者だ」
 彼の言葉は乱暴なのに耳を甘く擽る。誤魔化して自制しようと必死になっていることまで見抜かれているように思えた。私が嫌だと自分に言い聞かせながらも、心のどこかで彼のこの行為を受け入れていること、それは彼にはきっと筒抜けだった。
 「全部俺のせいにしたらいいさ」


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