縋ろうにも熱い鎖で封じられた腕が不自由なのがもどかしかった。いや、この不自由は私を護るための気遣いでもあったのかもしれない。単に彼自身に都合のいいようにしただけかもしれないが、私が他人を拒絶することを、彼は完全には否定しないでくれた――そうも思えた。いや、そう思えるほど、彼に酔っていたのだ。彼の目も、身体も、その熱は野性的でありながらも人間のものだった。橘は私の額に口づけて立ち上がると、小さなトランクの中を探して円筒状のケースを取り出してきた。
 「今のうちに逃げればよかったんじゃねぇの?つっても無理か、その格好じゃ」
 私の脚の間に座りなおしてそう言う彼を睨みつけ、手に持っているものを覗き込んだ。
 「冗談はよしてください。で……なんですか、それ」
 「ワセリン。傷口割れると痛ぇから」
 聞いた私はそれを彼の腕の傷口に使うものと信じて疑わなかった。私を縛るための鎖、そのための血液を多量に出したはずの傷口はうっすらとしか残っていなかったが、それでも私のせいで痛むのかと思うとなぜか私の心も痛むようだった。
 「なんだ、そんな顔して」
 「……すみません、私のせいで」
 「何のことだ?」
 彼の指先が透明な半固形物を掬い取るのをただ見ているしかなかった。溶かすように指先でそれを練ってはまた掬い取って混ぜる。いくら大きな傷口でも流石にその量は塗りすぎなのではないかと止めようとしたその時、私は下半身に強烈な不快感を覚えた。
 「何の、ことだ?」
 橘が同じ問いを繰り返す。ひとつ前とは違って、いや、初めて見たと言ってもいいほどの、性格の悪そうな笑顔がそこにあった。
 「亮輔、何がおまえのせいなんだ?」
 「殺す」
 「おお怖い怖い。そうこなくっちゃな」
 ふざけた量のワセリンは彼の腕にではなく、私に塗られていた。しかもあろうことか尻の穴に、だ。そう、それが一体何を目的とする行為であるかを理解するために私は時間を必要としすぎた。「犯す」という言葉の意味が今更すとんと落ちてくる。意味が分からない――橘という男は、同じ男性である私を、姦して汚そうというのだ。それに伴って彼のこれまでの言動と、私が特別な扱いを受けていると錯覚した理由、いやそれが錯覚でないことが徐々に、確かに、一本に繋がっていく。理解してしまった私はそれを悔やんだ。彼が私を「被害者」と表現したのは、単に彼の我儘と気儘の被害者ということでは、なかった。彼の指が常識とは反対の方向に身体の中に侵入しようとしている。
 「入るわけねぇだろ!」
 「残念、結構簡単に入るんだなぁこれが。慌てて入れるようなことはしねぇし」
 慌てて入れるかどうかはさして問題ではない。散々に指先を滑らされ、あまりの不快さと違和感と痺れに耐えかねて、私の脚が出しうる全ての力で橘の下腹部を蹴飛ばす。入った、と思った。だがその足ががっちりと彼の大きな手に捕らえられ、それが失策であったと私は悟った。
 「痛ぇな」
 顔をしかめながらも彼の口元は笑っていた。その笑みを見て私の背中にはまた痺れが走った。私にとっては渾身の抵抗でも、彼にとっては手に入れた獲物の最後の足掻きでしかなかったのだ。私はとうに彼の手中にあってもうどうにもできないのだと気づいた瞬間に私は妙な陶酔に堕ちた。このまま彼の思うままに扱われるであろうことを嫌悪できない。先に人間的でなくなったのは彼ではなく私であったかもしれない。本能がこの状況を危ぶんでいるのと同時に、私は愉しんでもいるのだ。私は必死に理性でそれを抑えようと試みていた。
 「面白いことをしてくれるな亮輔。おかげでますますその気になった」
 塞がりかけていた彼の傷口がまた血液を吐いた。生暖かいそれがまた鎖となって、彼の手の代わりに絡めとる――もう脚を伸ばすことのできないように、幾重にも私を縛りつけた彼は満足そうにまた私の身体を弄ぶ。私を襲ったのは最初に彼に触れられた時のような、恐怖を伴う不快感ではない。これは私の領域を汚されていく不快感だ。
 「耳、真っ赤」
 私は無意識に唇を噛んでいた。
 「貴様は俺が殺す……!」
 理性で抑えつければ抑えつけようとするほどに殺意が溢れてくる。もうどれが私の本当の感情であるかなど分からなかった。ただそのうちの一つは紛れもなく橘への殺意そのものであり、橘に酔わされていることもまた確かに自覚するものであり、それがまた殺意を増幅させる。素直に物を言うことを知らない私が唯一率直に口にできる言葉、それは「殺す」という物騒なものでしかなかった。
 「そんな可愛いおまえに殺られるなら本望だぜ、亮輔?」
 しかしそれは橘を煽るだけの結果だと、それに気づくのも遅かった。
 「血が出てるぞ。あんまり唇を噛むなって」
 「黙れ、入れんじゃねぇこの野郎!」
 私の意思が彼の行動に影響を与えるとは思っていないが、それでも無視して私の中に侵入してくる指を――迷いなく切り落としてしまいたい。気になって目をやってしまえば問題の場所が十分に視界に入るだろう。これまで経験したことのない感覚は目を閉じてしまうとより鮮明に、響くように、理不尽に私を襲いはじめ、しかしそれは彼の目に貫かれるほどの陶酔はもたらしてはくれなかった。
 「橘、やめろ、抜けっ」
 「誰が抜くかよ。おまえの気分ものってきてるっつーのに」
 「誰が」
 中に押し込められたものが私の中で蠢く。動かし方は執拗で、粘着質で、そのくせ丁寧で、そのせいで私の身体はもう誤魔化せないほどに熱を孕んでいた。私の激しい脈動の原因はレネゲイドウイルスではなかった。この感覚を表現する術を私は十分には知らないが、悲しみとは別のものを原因とする涙がじわりと滲んだことに気付いた。そうだ、与えられているという言葉が一番正しいのかもしれない。私の望み通りに彼の指が抜かれた、そのときに膨れ上がった喪失感と物足りなさは、きっと「与えられている」状態を失ったからだった。
 そんな受動的な感情ばかりに堕ちた私の目は、今更彼を睨みつけても、彼を刺激するだけの光を湛えてはいないだろう。
 「亮輔、口開けろ」
 唇を噛んでいた歯を言われるがまま持ち上げる。彼の温かい舌は私の目元の涙と口元の血液を掬い取って、そのまま唇に触れるものだと期待していた。期待していた――自分でも不思議だった。あれほど嫌だった接触が恋しくて仕方がない。こんな行為はやめてほしいという願いも、その時にはとうに、自尊心を守るためのほんの僅かな欠片でしかなかった。私はとうとうそれを自覚してしまった。
そして、その欠片すらもが私の中で砕け去るのも時間の問題でしかないと私は気づいてしまった。そんな私の脆さも橘の計算のうちだと思うと怒りや不快感、屈辱的な血の滾りが燃え上がる。それだけが私の理性を保つ糧であったはずが、その憎悪の炎に勢いがあるのもほんの一瞬だけ、彼の舌に触れられれば私の呼吸は止まり、私の身体は震える。私には分からなかった。私の理性がこのような行為で揺らいでいると理解することを私は無自覚に拒んだ。思考を手放そうとする私の口に差し込まれた彼の指を、私は無抵抗に受け入れた。
 「ん、妙に素直になったな」
 舌よりも乱暴に私の中を擦る指、それに抗わないことが素直だというのならそれでもいい。素直と言われ受け入れようとも、腕や足の拘束を解かれれば私は逃げ出すに違いなかったが――いや。今の私に、逃げ出せるのだろうか。この男の体温から逃れようと望めるほどに、私は満たされていただろうか。果たして、それは私の本心なのだろうか。
 「……西園寺、無理すんなよ」
 私は何を求めているのだろう。これまで私は何を求めてきたのだろう。評価か?知識か?誰にも劣らない力なのか?与えられるままに受け入れながら私の思考は混濁した。古い記憶で私の手をとった温かい手、何度もその感覚が蘇っては消える。橘の声は遠くで響いていた。もっと傍にほしいと思った。私に私の知らないものを与えてくれる、彼を。
 口から指を抜かれてはじめて、彼の手が私に触れる瞬間でなくても私の呼吸が乱れていることに気付いた。苦しくはなかった。私の肺はより多くの空気を吐き出そうとし、それと同量の空気を吸い込もうと大きく膨らんだ。気づかぬうちに、私は口で呼吸をしていた。
 「橘」
 呼吸を整えながら出した声は震えていた。自分のものとは思えないほど弱々しく、吐く息は体内で燃え上がる熱を帯びていた。橘はしばらく私の言葉の続きを待ってじっと私の顔を覗き込んでいたが、何を言おうとして彼を呼んだのか分からなかった私にはその目を避けるように少し顔を背けることしかできない。彼を呼んだというより彼の名を口にした、と言うべきなのかもしれない。私は、彼に告げるべき言葉を――伝えられるだけの言葉を、ひとつたりとも持ち合わせていなかった。彼が私を見つめる時間が非常に長く感じられた。しかしそれが不快でないのも事実だった。視線を返せない私を見ている目が、私の奥底の何かを掻き立てる。私は堕ちていた。精神的にすら彼の虜囚でしかなくなっていた。
 「橘」
 彼は返事をしなかった。私に何も言葉がないことを察していたのかもしれない。或いは、私が何か言うのをただ待っていたのかもしれない。言葉の出ないもどかしさと橘が行動を起こさないもどかしさに囚われている間にも、刻一刻と、私は彼の視線で蕩けていく。
 「橘、その」
 自分でも彼を呼ぶのが何度目か分からなくなった頃に、私は自分がどうしたいのかを少しずつではあるが理解しはじめていた。その希望を彼に伝えたところでそれを叶えてくれるとは限らないし、かといってそれを伝えるだけの決心も私には不足していた。私が彼に希望を伝える言葉を口から発することができるとすれば、それは随分と形を変えて、彼への不満を述べる形で表現されるものでしかなかった。それが私の精一杯だった。
 「……鎖を」
 これが私の限界だった。しかし彼の視線に晒されているだけでは私は満足できなかった。せめてこの身体が自由に動けば、私はたった短い言葉を口にするのに躊躇する必要もないというのに。私の手がせめて彼に届くなら。私の腕が彼の身体を引き寄せられるなら。私を物理的に繋ぐものなど必要ない。私にとっては彼を求めるのに邪魔なものでしかない。今の私はもう――この鎖がなくても、橘に縛られているのだから。



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