じっと、細められた彼の目が私を値踏みするように眺めまわす。私を解放しても逃げ出さないかどうか考えているのだろうか。彼の視線を受け止めた。頭の先から足の先まで、ぞくりと震えが走る。もうどうなってもいいと思った。今の私が望むものを彼が与えてくれるなら、その後のことはどうなっても構わないとすら思った。彼でなければならなかった。橘でなければ、私は最後まで抗い続けていたに違いない。彼の何が私を満たしてくれるのかという問いに明確な答えを持つに至れなかった、しかし溜まった熱が捌け口を求めているのか、私の口はそれ以上を考えるより先に言葉を滑り出させる。
 「鎖を、解いてくれないか」
 今度は自分でも驚くくらいには明瞭な発音だった。
 「もう逃げないから。無理矢理は、寂しい」
 言いながらも私が戸惑っていたのと同じぐらいか、或いはそれ以上に、橘も戸惑っているのが視線の揺らぎで分かった。確かに、あれほど抵抗して殺意まで向けていた私が――ああ、私自身信じることができないのだから。これは私の本能なのか、それとも別の理性で動く私なのか。もしかすると私自身ですらないのかもしれない。それは今の私がということではなく、橘や他のオーヴァードたちに接する、普段の私が。
 「西園寺、自分が何言ってるか分かってんのか」
 「無論そのつもりだが……亮輔じゃ、ないのか?」
 てめぇ、と彼が口の中で呟くのが聞こえた。これまで散々私を弄んできた橘への一種の意趣返しのつもりだった。しかし私が「冗談だ」という一言を付け足す前には全身に纏わりついていた戒めが全て解かれ、そのせいでそれまで縛られていた私の片脚は重力でベッドに叩きつけられるかのように落ちた。自由になった腕を伸ばすために身体を動かそうとすると至近距離に橘の身体が接近し、私の片手は彼にしっかりと掴まれ、その不気味なほど爛々と輝く目がそれだけで私を汚すようだった。私はあろうことか一抹の幸福感を得てその目を恍惚として眺めていた。近い。不自由だったために若干冷えていた指先にまで一気に血が行き届く。私は、どうかしてしまっている。そのことが私をさらに追い詰める。
 「橘、信じてくれたか?」
 「はん」
 嘲るようで温かい声音。これは私に向けられた好意の証だ。
 「信じる、ねぇ。それより自分の言ったことで後悔するなよ、亮輔」
 後悔はするかもしれない、だがそれは彼に完全に解放され、私が普段の生活に戻った後の話だ。彼の身体の下で自分の決断を悔やむことなど私にはもうできない。
 「そのつもりはねぇんだろうが散々煽りやがって。ここまでくると無自覚も罪だぜ」
 彼の目に私がどう映っているのか、私には知る由もなかった。ただ無自覚のうちに私が彼の興味を惹き続けているならば、それでいいと私は思う。幸運ですらあったと私は思う。私は――私は、これほど単純で愚かしい人の感情を、初めて身を以て知ることができたのだから。私の知らない、私の記憶でない、私の経験でない遥か遥か遠くの私が、もしかすると簡単に得ていたものを、この私はやっと受け入れることができたのだと。
 橘は一度私の腕を離して除けると私の上半身に残る服を脱がし始めた。先程までは私の腕を縛っていたためにそれができなかったのだ。私は何も考えずただ従っていたが、全ての布が私から引きはがされたその時にやっと、見られたくないものを彼に見られてしまったことを悟った。
 「なんだそれ、入れ墨か?」
 私がファルスハーツの研究所にいたとき、管理されていた私に与えられていたコードナンバー。完全に消すことは無理でも薄くすることはできると提案された私は施術を依頼した。普段少し目に入ったぐらいではその存在にすら気づかれない程度に隠されたその跡は、風呂や着替え、熱い時期の薄着くらいでは、余程でなければ誰かの目につくことはないだろう。だから油断していた。今更彼に見られて恥ずかしい場所などないと思っていた。
 「それは」
 「……おまえがファルスハーツの出身とは知っていたが、もしかして」
 UGNの研究施設でいくら人体実験が行われているとはいっても、被験者の肉体に入れ墨を入れて管理するということはない。無機質に刻まれたその文字と数字の意味が彼には分かったのだろうか。私は何も言えなかった。そのことで同情されたくはなかった。私自身にとっても遠い夢のようにしか感じられないその頃の記憶を鮮明に呼び覚ますこと、それは私にとって地獄のような回想になるだろう。
 「橘、いいから」
 私は何にも覆われない肌を彼に接触させた。少し寒いのも確かだった。
 「それより私の気が変わらないうちに、早く」
 「分かった。だがいつかその気になったら聞かせてくれよな」
 軽く首肯して彼の唇に触れた。この唇が私を軽く酔わせたのだ。今度はもっと深く口づけに浸りたくて軽く背伸びする。だが彼はおそらく私の望みを知っていながらも応えず、無抵抗なのをいいことに私の脚を開かせて内腿をつついた。
 「気持ちよくしてやる、それまでお預け」
 「む……」
 文句を言いたかったが何も言えなかった。彼の意地悪な笑顔を見ていると。彼の与えてくれるものを享受していればいいのだと、私の内側から声が囁く。私はそれに身を任せる。橘の行為は無理矢理なものではなくなったが、しかしいちいち了承を待つようなこともなかった。それが却って救いでもあった。私の中を掻き回し、私を乱すその指と――こじ開けるように奥深くに突き刺さる、指ではないもの。それが私に与える身体の内側から響く痛みは、実験体として過ごした日々のものと似ているようで、それとは全く異なっていた。
 どうしてかは分からない。分からないが、私の喉から漏れる音は痛みに耐える呻きばかりではなかったのだ。普段なら出ないような声。意識的に言葉を紡ぐために出しているものではなく、これは自分自身に制御できるものではなかった。
 「亮輔、辛そうだが抜くか?」
 「いやだ」
 私はまさに彼に犯されはじめたところだった。彼が私を犯すと言ってからどのくらい時間が経っただろう。その光景を直視する勇気などなかったが、今私の中に入っているのは紛れもなく彼の性器そのものだった。彼の両手が空いているのを見れば認めざるをえない異常な現実。それを知っていながら私は少しの嫌悪感と、これで彼の望みを叶えられたのという安堵、そしてこれだけで終わるはずがないという期待に胸を高鳴らせていたのだ。橘が指先に残るワセリンを拭き取ったちり紙を器用に屑籠へ放り入れる。仰向けの私の身体に重なる身体。その動きで彼と繋がっている部分が擦れると私の視界はフラッシュを浴びたように白く染まる。
 「橘」
 「なんだ」
 彼が身体を前後に揺らすと私は耐え切れなくなって彼にしがみついた。
 「ちょっと、待てっ」
 「痛いか?」
 「違う!」
 橘の肋骨を折ってしまうのではないかと心配になるほどには、私の腕は橘の身体を強すぎる力で締め付けていた。痛みを誤魔化すためばかりではない。突き上げるように襲う感覚が私の思考能力を奪っていくのだ。その衝撃は私にとって残酷なほどの激しさであった。一瞬それに貫かれて、解放されたと思えばまた貫かれ、小刻みな雷に撃たれ続けるならばこのような責め苦だろうとも私は感じた。
 「苦しいんだ」
 私の呼吸は刺激の繰り返しに乱されていた。橘は呼吸が落ち着くまで待ってくれるものだと思った。
 「苦しい……?気持ちいいんだろ、おまえ」
 「違う。そうじゃない」
 「これのせいか」
 言葉を遮るように橘がまた腰を揺らす。刺すような何かが私の中を奔った――今、橘は何と言った?
 「気持ちいい、のか……?」
 「おまえの反応はそうにしか見えねぇんだが」
 にやりと口角を持ち上げる橘。その不意の笑みのせいで鼓動が跳ねた隙に彼の動きがまた私の意識を侵す。
 「生きてるんだから自慰ぐらいはするだろ?出すときと似てるんじゃねぇの」
 「こんなんじゃ、ない」
 生理現象を解決するために時々行う自慰行為、あれが気持ちよくないとは私は言わない。それが生物として正常な感覚だろう。それを偽るほどの高慢さを私は持ち得ない。だがそれとは違う。橘が私に与えている刺激はもっと暴力的で、もっと強烈で、もっと荒々しいものだ。それと同種とは私には判断できない。だが何度もその感覚を浴びているうちに、会話のためにその波が止まることをもどかしく感じるようになっていたこともまた否定できなかった。私がそれを告白することは決してないだろうが。
 「そうか、おまえが言うならそうなんだろうよ、亮輔」
 橘は一人で納得したように頷くと私の頭を指先で撫でた。私がそれに満足していると狙いすましたかのように彼が身体を動かしはじめ、今度は止まらない彼のものが私の中のどこかを擦るたびに私はものを考えられなくなる。「犯される」という言葉の意味はそこにあるのだろうか、こうして為す術なく私はますます私でなくなっていくのだ。その原因の全てが目の前の男であると自分に言い聞かせなければ私はきっと壊れてしまう。
 彼の指が私の首筋をなぞった。橘の行為を受け入れはじめたころの私が酔わされていた心地よさ、それとは段違いの刺激で私を沈める。もっと触れてほしい。私の熱をもっと高めてほしい。私は今や間違いなく、この背徳的な行為を楽しんでいる。
 「たちばな」
 掠れた声しか出ない。しかし私が声を抑えるのをやめれば、嗚咽するような情けない声ばかりがこの部屋に響くに違いなかった。
 「もっと、触れてほしい」
 自分でもよく理解しないままこぼれた言葉に、返された優しい笑みと鋭い眼光――それだけのことで、私に残っていた最後の理性はぷつんと途切れてしまった。
 おそらくだが、私は今、幸せだ。




スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。