もう一度手を伸ばし触れる。「まだ」というハッタリを真に受けたらしい可哀想な男が捨て猫のような力ない目を他所へ背ける。快復しきっていないせいで俺に太刀打ちできないことを知ってか、他にも、俺への義理のようなものも感じているのだろう。俺自身にはそれほどこの男を抱く気はなかった。少し揶揄して、それでも言いたがらないなら当分の間の話の材料にでもしようかという程度にしか考えていなかった。
 「何があったのか教えてくれませんか、叔清」
 耳へと指を伸ばしながら訊いてみる。逃れようとしているのが分かる。心音が聞こえてくるのではないかと思えるほどの焦り様を見ていれば、もうこのくらいにしてやろうかという気にはなった。取り敢えず今日のところはこの男の取り乱した姿が見られたので満足だ。
 「うーん。こうなったらもう」
 教えてもらえないみたいですね。そう続けて指を離そうとしたところ、先程と同じように手首を掴まれ――また外されると思ったら、ただその手を握られたままで。
 「……叔清?」
 視線はこちらに向けられない。
 「その気なのか」
 ぽつ、と男が小さな声で呼びかけに答えた。熱を持った指が手首に浅く沈み込む。力が入っている。ただそれでも俺がその気になれば簡単に振りほどけるような弱々しい握り方で、空いた左手でその指を解きながら右手はそのまま頬に触れ続けた。
 「あ、えーっと」
 その気なら抱けという遠回しな意思表示なのだろうか。確かに数日、いやそろそろ一月にも及ぶかもしれないが眠り続けたままで、俺なら生理的な自慰行為もなしに過ごし続けるのは流石に苦痛でしかない期間、よりにもよってこの男に限ってはそういう欲求がないと思い込んでいたのは確かに軽率だった。どうしたらいいだろう。彼を一人にしておいたらいいのか、しかし先程掴まれたのは。
 「……成程ね」
 覆いかぶさるように身体を近づけ、彼の右耳へと口を寄せる。すぐ傍まで近寄れば彼が息を止めているのが分かる。耳を擽るような声音を、意図的に。女性に囁きかけるのとはまるで異なる言葉を、刺すように、溺れさせるように響かせた――それを堪えようとして抑えきれなかった震えが頬に触れている手に伝わってくる。まだこちらに向けられない視線、熱を帯びた頬の色、これらは単に俺の意地悪な問いかけに戸惑っているというばかりではなく、「その気」なのはこの男のほうだったのではないか。確か彼には懇意にしていた相手もいるはずで、しかもその相手が誰であるかも俺は知っているのだが、その上でこの男は今、俺に身体を預ける気になっていると。
 「ならばあなたの身体に、教えてもらいましょう」
 我ながら月並みも甚だしい、下劣な一言だ。
 しかしこうして俺が見ているのは可憐な女性ではない。途方もなく強情で、どうしようもなく哀れで、今やこの大陸で誰にも引けを取らないと言っても過言ではないかもしれない、半神の邪紋使いだ。これから俺はその男を恋慕の情なく、ただ一時の支配欲と好奇心で、彼の熱を沈めるために彼の期待に応えて抱くのだ。俺が煽ったのは事実であるしこうした一時の関係は別段珍しいことでもない。ただ一ついつもと違う点があるとすれば、これから俺はこの強情な男の希望をなんとか聞き出し或いは言葉にないものも察しつつ、それに沿うように満足させなければならないということであろう。
 妙な気分だった。ダートゥムにいた頃は憧れとしても見ていたこの男が今は息の温度も感じられるほどに近くにいて、俺の手を拒まないという突発的なこの夜が現実だということを疑ってしまうほどに。




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