見下ろされている。もう思い通りに動けない。このままされるがままになるしかないと悟れば、また熱が滲んで滴ってしまう。後ろに引っ張られた首輪か喉を締める。麻酔の瞬間のように意識が揺らめく。今から俺はこの夢のような世界で全てを晒すしかないのだ。音混じりの自分の吐息は不規則に、期待に震える全身に響いている。

 ――ほんの、数分前のこと。
 先にシャワーを済ませて戻ってくると、背が高く、いかにも真面目そうで綺麗な目をした彼は、ソファーに深く腰掛けて、熱心にでもなくなにかを眺めていた。隣に座り、ホロディスプレイを一緒に覗き込むのはいつものことだが、今日は、「特別」が欲しくていつも以上に身体を寄せた。
 いつもの匂いがした。いつもなら気づかないふりをしてやり過ごす、彼独特の、若い汗の匂い。それを敢えて求めて吸い込んで、それだけで高鳴る身体を止めない。
 「****」
 呼べば、嫌がりこそしないが、鬱陶しそうな視線を浴びた。服も着ずに、鱗も隠さずに、首輪だけはつけたままの俺を見て、「風邪をひくぞ」とだけ言ってディスプレイに視線を戻した。背中に震えが走った。必ずしも好意的でない目が、それでいて案じてくれる言葉が、どちらも嬉しくて身体が先に反応する。
 抑えなかった。今日は、抑えない覚悟をしていた。
 内側から溶かされる恍惚で、胸が締め付けられるようで、切ない。息が荒く漏れてしまう。彼を、相棒を見ている目は、今はきっと剥き出しの感情で潤んでしまっているはずだ。彼が見れば気づくだろう。その時、いつものように困惑や戸惑い、いや、それとも嫌悪を向けてくれるのかもしれない。どれでもいい。もう一度声をかけて彼の気を引こうとしたときに、不意に目が合ってその視線に抉られるような衝撃を覚えた。
 「………………」
 無表情の目、俺の出方を待つ、いつもの真面目な表情、だがいつも彼ばかりを見ている俺には分かる、その口許が少しだけ、俺の目を見て驚いている。
 隠さない。身体が震えるのを隠せない。
 昂っているのが分かる。心臓の鼓動は速く、身体の芯は熱く、そんな目で見られたことが耐え難くて、陶酔のあまり力が入らなくなる。
 「なんだ、それ」
 発された一声で自制は完全に陥落した。だめだ、今すぐ欲しい。冷たさでも熱さでも、呆れでも構わない、とにかく、今すぐに与えてほしくて、これまで待ち望み続けた内側が痙攣するようにきゅうと絞まった。
 「……抱きたいのか、俺を」
 冷静な声に答えようとして、それより前に声が漏れる。首を横に振った。
 「違う……」
 自分でも恥ずかしくなるほど掠れて力のない声しか出ない。凭れ掛かるように顔を隠した。見られたくないというより、彼を見ていることができなかった。綺麗な目。美しい髪。整った顔立ち。頼り甲斐のある背中、呼吸ごとに動く温かい胸。何か言いたそうな喉元――見ていられない。あまりに眩しくて、胸が苦しい。
 「抱いて……くだ……さ、い……」
 あれだけ伝える覚悟を何度も決めた一言ですら、震えて上擦って、ひどく惨めだ。彼が眩しすぎるのが悪いんだ。いつもそうして俺を見て、俺に期待させるおまえが悪いんだ。そんなの、そんなの、おまえに与えられたくて仕方ない俺に耐えられるわけがない。
 「抱いてください……お願いします……犬みたいにして、いいから」
 聞こえていたのか、聞こえていなかったのか、言い直しを求められているのか、少しの間が空いた。聞こえてくる二つの心臓の音は、速さがあまりにも違いすぎて同じものとは思えないほとだ。声を発するために彼が息を吸う音が聞こえるまでの時間が、長く感じられた。
 「……おまえ、なぁ」
 呆れた声に違いなかった。きっとそうだろうとは考えていた。それでも実際に言われてみると、冷静にはなれない代わりに、拒まれた悲しさと興奮が入り交じって、諦めの言葉も、更にすがる言葉も、どちらも出てこないのだった。
 「本当に馬鹿だな」
 「わ……かってる。そんなこと」
 「いいや。分かってない。今頃になってやっと言い出して――本当に馬鹿だ。そんなになるまで隠すことか」
 大きな手が髪に乗せられた。普段なら嬉しくて仕方のないその重さも、幸福にしてくれる指の動きも、今は俺を宥めようとしているのが分かった。そうか、隠せているつもりが彼には見抜かれていたのかもしれない。ずっと気づいていたのに、それならいつもどんな気持ちで俺と一緒に過ごしていてくれたのだろう。気持ち悪かっただろう。気も遣ったことだろう。これまでの関係を崩さないように、微妙な状態にしてくれていたのに、俺がそれを変えてしまった。
 もう無理だろう。頭を引いた。身体を離して、やっぱり今のは忘れてほしいと、これまで通りでいてくれるならそうしてほしいと、なんとか絞り出して伝えて帰ろうと、大きな手の優しさに甘えて更に昂る自分を抑えようと、決意して息を吐く。
 「****、あの、俺な」
 目の前の彼が眉を寄せた。その表情も眩しい。今にも再び全身の力が抜けてしまいそうな、完璧な顔だ。視線から逃げるように目を伏せて身体を離そうとすると、素早い動きに首輪を引かれて息が詰まる。後ろから指をかけられていた。引き剥がそうとしているのだと思った。
 「何故逃げるんだ」
 何を言われたのか、一瞬朦朧とした意識では咄嗟には理解ができなかった。
 「どうして離れるんだ」
 身体が浮いた。そういえば、彼は相棒である以前に一人の警官で、一緒に任務に当たってきた頼れる仲間で、それほど背の高くない俺を持ち上げるくらいなら造作のないことなのだ。ただ初めてのことへの驚きで、助けるのは俺の役割だと思っていたところへの不意討ちで、自分の身体が熱を孕んでいることも忘れて無意識のうちに彼にしがみついていた。
 ベッドに下ろされる。隣ではなく、下に置かれる。軽く放り投げられた身体に覆い被さるように、俺より背の高い男が乗り上げて、有無を言わさぬ力で俺を押さえつける。これだけでどうかしてしまいそうだ。取り押さえられる犯人のように、俯せに手首を掴まれ男の重さに沈められる。自分の息が熱い。こんなことも夢見ていた、彼に抵抗を封じられ、乱暴に扱われることを妄想して、自慰行為に耽ったこともあった。
 「四条」
 耳許に寄せられる声が近い。
 「犬のように抱かれたいと言ったのはおまえだろう」
 「そんなこと」
 「煮えきらないな。はっきりしろ」
 鱗が覆う尾の先を握り締められる。痛い。彼はこんなに強かったのか。侮っていたわけではないが、その気になれば俺一人くらい簡単にどうにでもできてしまうことに改めて気付かされると、いつも優しく触れられていたことに気付かされると、俺は、もっと、もっと。
 「思い通りにされたいんだ……!」
 涙が溢れてくる。何故泣いているのか俺自身にも分からないが、とにかく涙が止まらない。顔も見えない、見られもしない、目をきつく閉じて、全身に走る甘い痛みと痺れと重み、全ての言葉を失いそうな溶融に今は少しだけ抗って、もう一言を絞り出す。
 「おまえになら、殺されたって、いいんだ」
 本当に惨めだ。こうして組み伏せられて、もしかするとこのまま頼みを聞いてくれるのかもしれないと期待する自分も、惨めだ。それを喜んでいることが、喜んでしまうことが惨めだ。
 俺の答えを聞いてどんな顔をしているのだろう。その気になれば振り返ることもできたのかもしれないが、今こうして退路を断たれているこの時間も悲しいくらい幸せで、悲しいけれど幸せで、抗うことなんてできるわけもなかった。
 「馬鹿だな」
 溜め息が聞こえた。
 「……泣くなよ」
 尻尾を握っていた手に顔を起こされて、涙を拭われた。優しさにすら興奮する自分が情けなくて、一度開けた目をもう一度瞑れば、溜まっていた滴がもうひとつ落ちていく。それを拭い取られ、髪を分けるように撫でられて、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いて、それでもぐちゃぐちゃなままの俺はすぐ隣から響く声で軽く達しそうになった。
 「泣かないでくれ、四条。本当に思い通りにしていいのか、分からなくなるだろう」 


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